貸出を増やせば、貸倒率は予測できるようになるのか
貸倒率は予測できるのか
銀行は貸したお金の一部を回収できません。貸出件数に対する回収不能(貸し倒れ)件数の割合を貸倒率といいます。
第1回のルーレットの最後に書いた通り、銀行は大数の法則を使って貸倒率を予測しようとしています。
1件1件の貸し倒れは予想できないが、たくさん集めれば平均は安定する。だから件数を増やせば貸倒率は予測できるようになる、というロジックです。
では、「件数を増やせば」いつでも貸倒率を予測できるのでしょうか。今回はこの問いについて考えてみます。
束が一つしかないとき
前回の世論調査では、同じ束の中の人は似た答えになる、というケースについて深掘りしました。束が有限なら、人数を増やせば別の束が増えるので、遅れても平均は真の値に着く。
前回の最後に残した問いは、束が一つしかなかったらどうなるか、でした。今回は貸倒率を例にこの点について深掘りしていきます。
同じ年に、同じ国で、同じ金利のもとで貸した1万件について考えてみましょう。これらの貸出はどれも、その年の景気や金利、大きな災害といった同じ状況のもとにあります。前回の言葉でいえば、この1万件は互いに無関係な1万個の束ではなく、同じ状況を共有する一つの大きな束です。
図で見る
真の貸倒率を2%として、1万件まで貸出を増やしながら「ここまでの貸倒率」がどう動くかを8回ずつ描いたのが図1です。4つの枠は、貸出同士の相関が0、0.007、0.015、0.024の場合です。前回の0.1と比べれば、どれもかなり小さな相関です。

まず左上の枠(相関0)を見てください。1万件まで増やすと、8本とも2%の前後0.3ポイントに収まります。前回と同じ、独立の場合の絵です。
次に残りの3つの枠を見てください。どの枠でも、8本の線は途中から動かなくなります。ここまでは独立の場合と同じです。違うのは、落ち着く先です。1%に満たない線もあれば、6%を超える線もあります。赤い線はおよそ95%の線が入る幅を表していますが、この幅は件数を増やしても縮まりません。
つまり、平均は落ち着いた。でも、落ち着いた先が真の値ではないということです。前回は真の値に着くまでの速さが変わりました。今回は、着く先そのものが毎回変わります。
縮まらない理由
前回の式をもう一度使います。
n件の貸倒率のぶれ = 1件のぶれ ÷ n ×(1 + (n−1)×平均相関)
前回は、件数を増やすと別の束の人が増えるので平均相関がゼロに向かい、括弧の中は1のあたりで止まりました。今回は全員が同じ束なので、平均相関は件数を増やしてもずっと同じです。すると括弧の中は n−1 と一緒に大きくなり、n で割っても「相関 × 1件のぶれ」が残ります。
ここで注意したいのは、相関の大きさが問題なのではない、という点です。0.007という小さな相関でも消えない。前回の0.1は消えた。違いは相関の強さではなく、件数を増やしたときに相関が薄まっていくかどうかにあります。
すくった一杯を、味見し続ける
前回のみそ汁の例に戻ります。かき混ぜていない鍋から、お玉で一杯すくったとします。そのお椀を一口飲むごとに、お椀の中の濃さはだんだん正確に分かっていきます。ただし、いくら飲んでも分かるのはこの一杯の濃さであって、鍋全体の濃さではありません。
図1の8本の線は、この8杯にあたります。どの杯も、飲むうちに濃さは落ち着きました。でも杯ごとに濃さが違います。
貸出に戻しましょう。どの貸出も、その年の景気、金利、住宅価格といった、全員が共有している値のもとにあります。これらの値は、その年に1回だけ決まります。1件1件の貸し倒れは互いに無関係に起きているように見えますが、どの貸出も同じ年の同じ景気のもとにある。みそ汁でいえば「お玉ですくった場所」にあたるもので、以下これを「共通因子」と呼びます。
前回の束は、人数を増やせば自然に増えました。今回の杯は、件数をいくら増やしても1杯のままです。
同じ形は、あちこちにある
共通因子があるのは貸出に限りません。「件数は大きいのに、杯は一つ」という例をいくつか並べてみます。
住宅ローン。2000年代半ばの米国では、何十万件もの住宅ローンを束ねれば貸倒率は予測できる、と考えられていました。1件1件の借り手は、たしかに互いに無関係に見えます。しかし金利と住宅価格は全員が共有していました。それが一度動いたとき、何十万件の貸し倒れがまとめて動いたのです。件数を増やしても防げるものではありませんでした。
分散投資。持っている株を1銘柄から100銘柄、1,000銘柄と増やしていくと、個々の会社の事情によるぶれは消えていきます。しかし市場全体の上げ下げは、どの銘柄も共有しています。銘柄数をいくら増やしても、この部分だけは残ります。
製品検査。同じロットから100個を抜き取って検査すれば、そのロットの不良率は正確に分かります。しかし同じ原料、同じ機械設定、同じ日に作られた製品は、そのロット特有の癖を共有しています。分かるのはこのロットの不良率であって、この工場の不良率ではありません。
ウェブサイトの実験。新しいデザインの効果を測るために、ある1週間のユーザーを何万人も集めたとします。その週にキャンペーンがあった、季節が夏だった、といった事情は全ユーザーが共有しています。人数を増やしても、「その週の答え」が正確になるだけです。
臨床試験。一つの病院で患者を何百人集めても、その病院の患者層や、医師の判断の癖、地域の事情は全員が共有しています。複数の病院で試験を行うのは、杯を増やすためです。
どの例でも、件数を増やすだけでは杯は増えません。
何が言えなくなり、何がまだ言えるか
言えなくなるのは、「件数を増やせば真の値に着く」です。件数で解決しようとしても、共通因子は件数に応じて薄まってくれません。冒頭の問いへの答えは、「予測できる。ただしそれは、この景気のもとでの貸倒率」になります。
一方で、まだ言えることもあります。この一杯の濃さは正確に分かる、ということです。今年の景気のもとでの貸倒率であれば、1万件あれば±0.3ポイントの精度で読めます。分からないのは、杯ごとの濃さがどのくらい散らばるか、つまり景気が変わったときに貸倒率がどこまで動くかです。
したがって実務での対処は、杯を増やすことになります。複数の年、複数の国、複数の市場、複数の工場、複数の病院。前回は人数を増やせば束は自然に増えましたが、今回は自分で何杯もすくいに行く必要があります。
なお、ここまでの話には一つ前提が残っています。お椀の濃さは、すくった時に1回だけ決まって、飲んでいる途中では変わらない、という前提です。では、味見の最中に誰かが鍋に味噌を足したらどうなるか。次回はそこを見ていきます。
この記事の計算編(コードと実験)は Zenn の記事 にあります。